描くということ
前回(8月10日)の投稿では、『「 間 」にあるものの価値 』とのテーマで、採用活動の経験を重ねるうちに、相手と自分という「対」の関係以外の何かに着目することに気づいたとのお話を書かせていただきました。
「マッチングを望む私たち(学生と採用担当者)は、その関係の間にある、様々な目に見えにくいものや見えないものにも意識を向けながら臨む必要があるようだ」
・・・こんなことを感じていたという話でしたね。
今回は、一部に前回の流れを汲みながら別のジャンルの話題も編み込んで書いてみます。
■ 「えがく」のか「かく」のか
本ブログのプロフィール欄にも記載している通り、私は「描」という文字が好きです。
あくまでも私見ですが、「描」という字からは、「自分の手で土を耕し、苗を植え、愛しみながら育てる」というような情景を想像させられます。
私は、「絵を描く」ことが大好きで、その四つの文字を見たり書いたりするだけでもワクワクします。(よろしければ、インスタグラム【 kazuxy330 】をご笑覧ください)
ところで、絵を描いている時には、同時に「描く(えがく)」という思考や想像が行われています。「思い(想い)描く」という行為に突き動かされて絵筆やペンを握っているようなところがあります。
それにしても日本語は面白いですね。
漢字の「描く」を「かく」と「えがく」のどちらで読むか、それによって意味が大きく違ってきます。
「描く(えがく)」は、「物の姿や形を絵や図にして表現すること」「姿やイメージを想像すること」「思いや考えを文章や音楽などで表現すること」などの意味として使われることが多いようです。
「描く(かく)」の場合は、わりとシンプルで「絵や模様や図形などをかいて示すこと」を意味するようです。
画家は「描く(えがく)」ことを通じて様々な何かを描写したり表現し、それらを生業や生きがいとしています。同時に、見えない思いや感情、情景などを想像して描くことも活動に含まれているのだと思います。
アマチュア画家としての私の場合は、「描く(えがく)」に重きを置き、それが「描く(かく)」という行為を通じて表現できたと実感できる時に大きな悦びとか達成感を感じます。
その時には、少なからず「自分の手で土を耕し、苗を植えているような」感覚があります。そして、耕し方や植え方は自由に選択できますし、そこに愉しさと難しさがあります。
■「見る」と「観る」・・・どっち?
絵は「みて」くださる方がいらっしゃるからこそ輝きます。
絵をどのように「みてもらえるか」については、それはもう、画家の感性や技量次第だと思います。
そして、その「みかた」については、正解がある訳ではありません。多種多様で自由で良いと思います。
あくまでも私のイメージですが、「見る」というのは、何だか、無意識的であっさりとしている感じがします。一方「観る」は、何か意図的に目を向けて、形や様子、背景などを探ったり察するような雰囲気があります。
例えばテレビでも、何気なく「見る」ときもあれば、観察するように「観る」時がありますね。
ほとんどの画家は「自分の描いた絵」に対しては、できれば、「見る」というよりは「観る」ように接してもらいたいと望んでいると思います。
やはり、絵は「観賞」してもらいたいですし、「観賞」に値し、促進するような絵を描きたいと私も切望しています。
あれやこれやと拙い持論を展開してしまいましたが、結局、絵の世界は「みる」も「かく」も「えがく」もそのあり方は自由だ~。
■ 正解のトレースは限界かも
ところで私は60歳。これまでは会社に所属し仕事を37年間続けてきました。
当時のビジネス現場では長く、論理的思考(ロジカルシンキング)や批判的思考(クリティカルシンキング)が重要視されてきました。
物事を体系的に整理して筋道をを立てて考えたり(論理的思考)、物事を鵜呑みにせず批判的かつ本質的に捉え判断する(批判的思考)ことが大切だというわけですね。
その通りだと思います。今もそうですが、これらの思考方法を身につけておくことは、とても大切で必要なことだと感じますし、当時はその習得と活用に励んだ記憶があります。
振り返ってみれば、自覚はなかったですが、学校でも学習を通じてそれらの思考を活用することを要求されてきたことでしょう。
社会人になってからは、専門的とは言わないまでも両方の思考を駆使した方が、仕事がうまく行くことが多かったように感じます。
ただ、あえて批判的(クリティカル)に捉えて言うのなら、正解もしくは正解らしきものがあり、そのための道筋もあり、それを上手くたどる(トレースする)ことで、成果や評価を得られた時代ではそうだったように思います。
繰り返しますが、論理的思考や批判的思考は今も必要だとは思っています。ただ、その必要性は、そもそもというか、ベースとして必要なものとの理解です。
■ 正解なき時代を生きる
この頃の世情は、VUCA(ブーカ)と表現される特徴が続いているように感じます。
簡単に説明するとVUCAとは「変化が激しく、先行きが不透明で、将来の予測が困難で、曖昧な状態や状況」という感じでしょうか。
この言葉は、元々1990年代に米国で軍事用語として活用された言葉で、以下の四つの単語の頭文字からなる造語です。
・V(Volatility:変動性)
・U(Uncertainty:不確実性)
・C(Complexity:複雑性)
・A(Ambiguity:曖昧性)
このような状況では、絶対的な正解はなく、どこかの誰かが解答を明示してくれることもありません。
自分(たち)で、その時々に整合する「適切解」を導き出すというか、創造していく必要があるのだと思います。
アーティストの端くれとしては、そこで「いざ、アート思考の出番」と主張したくなります。
ちょっと説明が難しいのですが、アート思考とは、文字通り「アーティストが作品を生み出す過程における考え方というか、思考プロセス」のことを指します。
つまり、冒頭で記述したような「描く(えがく)」というか、自分なりの思いや考え方で「無=0」から「有=1」を創造していくようなものでしょうか。
いわば、「直感(直観)」ですね。
私としては、VUCA時代だからこそ、「サラリーマンよアーティストたれ」「自分の直感(直観)を信じよ!」と声を大にして言及したいのです。
■ 直感と論理の間にあるもの
「芸術は爆発だ!」で有名な岡本太郎画伯は、その独自の想像性と創造性を爆発させて、「無(0)」から数々の奇想天外な「有(1)」を輩出されました。また絵や造形物以外にも、私たちを勇気づけてくれる名言を残してくださいました。
ちなみに、私は太郎画伯を敬愛していますが、その画伯の「下手でも自分自身の歌を歌えばいいんだ」という言葉に、いつも励まされています。
ただし、大画家のような「直感(直観)」だけでは物事が偏りすぎたり、根拠が無さすぎる傾向も出てくるので、特にビジネスの世界では、デザイン思考が必要でその活用が有効になってきているようにも思います。
どうやら、デザイン思考とは、直感(アート思考)と論理(論理と批判的思考)をつなぐ思考法のようです。
「それはただの妄想に過ぎない、きちんと化学的な根拠を示せ」と締め付けないでくださいね、ちゃんとわかりやすくデザインして成果を出せるように示しますから・・・。
こんな感じでしょうか?
ということで、現代の学生や社会人は、時と場合に応じて、様々な思考を駆使していく必要があるようです。
ただ、アーティストとしては、仕事も遊びも趣味も、まず、アート思考や感覚を仕舞い込まずに、自分らしさを大切にして何かを描き始めてしてほしいと、強く思うのです。
そうだ、今こそ、様々なシーンでアートを取り入れよう!
「・・・もうええって!」
「そうでっか・・・」
それでは、今回はこの辺で、終わりにしたいと思います。
今回の話題については、またいつか、掘り下げて書かせていただきたいと思います。
これからも、あまり気負わずに、ボチボチと投稿を続けていきたいと思います。
次回のテーマは未定です。
Art、Career、Recruit、その他のいずれかの話題をお届けしたいと思います。・・・たぶん。
それでは、また。
ごきげんさんで。